2017.2.2

いつも正しいことが必ずしも正しいわけではないよ。
ということを、この一年間で複数人の大人に言われた。
 
その前の一年間は、正しいことを正しいと言える、あるいは間違いを正すことに臆さないあなたが本当にすばらしいと。
それもまた複数人の大人に言われた。
 
昨日までのわたしに問題だったのは、そのどちらの評価が正しいだとか、その肯定から否定に翻ってしまった一年間に、わたしのなかで起きた変化はなんなんだろうだとか、そういうことに焦点をあてていたことだった。
 
だってそもそも、正しいとか正しくないとか、なに?っていう。
 
きっと、もっとしっくりくる表現を探すのならば、正しい正しくないではなくて、わたしの中でそれが、許せることか許せないことか。
ただそれだけのこと。
 
例えば、どうしても許せないことがあったとして、もしくはそのときそれをその人に言わないということ、それ自体がわたしにとって許せないことだったとして、その瞬間の自分に正直な選択をすることは、たぶん、間違っていない。
仮にそれで、その相手を怒らせたり、ぶつかってしまったり、距離を置かれたり、怖がられたり嫌われたり、そういう結果を招いてしまったとしても、それはわたしにとって必要なプロセスなんだと思う。
 
基本的にせっかちなので。
 
そこを乗り越えないまま、ぬるま湯の底でたゆたうみたいな関係を続けることは、人によっては平和的で心地の良いものになるかもしれない。
だけどわたしは、そんな、全く、たゆーんたゆーんな対人関係なんて、求めてない。
それが刹那的なものではなくて持続的なものなら尚更。
 
ぶつかった結果、距離を置かれた相手ももちろんいる。
だけど、ぶつかった結果、ひとまわりしてから付き合いのある友人とは、もはや何でも言い合える気持ちの良い関係を築けている。
 
そんな友人たちとそういう関係性でいられることは今のわたしの財産だし、仮にぶつからなかったら今みたいにはいられないかもしれないと思うと、あのとき許せないことを許せないと伝えた自分に、ありがとうと思う。
 
言葉なんて、選んでる時点で自分の言葉ではないよなとも。
相手の顔色なんて、うかがってる時点で相手を見下してしまっているよなとも。
相手の機嫌を損ねないようにすることが、相手のことを思いやってるとは、決して思えない。
相手を傷つけない言葉を選ぶことが、優しさだとも思わない。
 
そのときその人の許せないことを、わたしが許せないと伝えること。
わたしはそういうふうに、自分にも、相手にも、優しくあれたらいいなと思う。