15. December/2016

それでは今日、この日、顔をつきあわせて浮かんでくる互いの笑顔は、どこから生まれてくるのだろうか、と。

 

「真面目な話って苦手」

 

言われるまでもない。

例えば朝目覚める、昼間はせっせと働いて、夜は風呂入って寝る。ある1日のサイクル。時間によって行う動作が違うように、空間によっても、違うのだ。わたしの顔は。

 

*

 

大学一年生の頃のわたしは、ちょっと無敵だった。

生まれて初めて実家を離れ、わたしのことを誰一人知らない場所で暮らし始める。言うなれば、それまでの18年間の「わたし」はリセットされる。ここからどんな「わたし」にだってなれるし、なろう。とりわけどんな姿を目指したわけでもないけれど、どういうわけか漠然と、希望しかなかった。日を追うごとに鉛の玉が幾十もつらなって足首にまとわりついていたはずなのに、まるでそれがふっと消えてなくなった。

ほんの18年間。されど18年間。

それまでの荷物を整理した。

いらないものは、置いてきた。

 

「ドミノってあるじゃん、それと同じよ」

 

優子が言った。なにが?とわたしは聞く。

 

「めっちゃ時間かかるわけじゃん、途方もないくらい地道な作業で。ほんのちょっと肘が当たるくらいの油断であっというまに崩れるし。そんでそれを挽回するのにも、まーた結局地道な作業。でも始めちゃったらやめられないでしょ、完成形を見たいでしょ、だってそのために始めたんだものね、そんだけ途方もない作業と時間を、諦める勇気なんてだーれもないよね。そして最後に見る景色。達成感と爽快感。言い知れない満足感。仮に諦める人がいるとしたなら、たとえどんなに些細なことでも、そこにたどり着いたことがないってことね」

 

うん。だけどそんな人きっと、世の中にいない。

そう断言したわたしにもきっと本当はわかっている。積み上げたものは消せない。できるのはフタをして隠すだけ。見えないふりで逃げるだけ。

 

「2億ピースあるとしよう。だけど1億ピース並べて完成だと思えばそれもありじゃない。残りの1億ピース使うことがいつも正解とは限らないんだから」

 

優子は、聡明だ。

要するに、あの、無敵だった19歳の頃のわたしから、7年という月日が経過したわけだった。環境を変えるという意味で、わたしはなんど「わたし」をリセットしたのか、もはやすでに分からない。それでも、「リセットする」という経験を持った時点で、わたしはすでに別物だ。完全な意味でのリセットなんて、タイムマシンでも発明されなきゃあるわきゃない。

 

ありとあらゆるリセットからの創設を見届けてきた唯一の友人である優子は、それでもわたしの細部は知らない。たとえば胃袋の容量とか毛細血管の色だとか、そんなものまで見えるひととは友人ではいられないはずなのだから当然だけれど。

社会人3年目となった彼女は、すでにいまの職場が3件目になる。ただし並べたピースはそのまんまで、決してフタなどしないで隠さないで、古いピースたちと新しいピースたちを繋げるすべを知っている。リセットではなく、駒を新調するだけ。たとえそれがいびつになろうと、多種多様でカラフルな駒を一緒くたにする。綺麗な空色や橙色に混ざって、不協を奏でるくすんだ土色が間にはさまっていたっていとわない。だってそれすらひとつの色の一部だからと。そう捉えてみせる力と強さが、彼女にはある。

 

「優子」

 

振り返る声の先にその男はいた。ひらひらとこちらへ振る手のひらの熱は頼りなくても年期だけは確かなようで、それに応える優子の表情もさして硬くも柔くもない。

ちから。たしかな。

文字通り、のどから手が伸びてくるような感覚を味わう。それでも、ぽかんと口を開けて物欲しそうな顔をしてみせる度胸すらもわたしにはない。

 

「ていうかさ」

 

優子は飲み干したコーヒーの紙カップの蓋を外しながら口を開いた。ほんの数グラムの液体が、カップの底のふちで薄くて細い円を描くのをじっと眺めているので、つられてわたしも視線が俯く。

 

「あんた結局、好きなの?そのひとのこと」

 

ゆるやかに歩み寄ってわたしたちの席の横に立った優子の彼が、「なに、なんの話?」と喜々として聞いてきた。無意識に視線を宙に浮かせたわたしの表情に優子は小さくため息をついて、「何でもない」と立ち上がる。コートを羽織る彼女のバッグを彼は自然と受け取っている。

確信した。少なくとも、いまのわたしが求めているのはその腕ではない。

 

リセットボタンを繰り返し押しているうちに、終着点がどこにあったのかすら、見失ってしまった。わたしはどこをめがけて歩いていたのか、ただそれすらも。残した足跡がたよりない道を生みだすだけ。

 

待ち合わせ前の貴重な十数分を捧げてくれた友人の背中を見送って、わたしは携帯電話を取り出した。開いた連絡先の使用頻度はごくわずか。そんな程度の関係性。すがりつく理由がどこにある。そんなことは、わたしが一番、ようく知ってる。

この指先が何を求めているのか、皆目検討もつかない。にも関わらず、打ち出した一言に返信はすぐに戻ってきた。

 

『いいよ、いつにする?』

 

*

 

たとえば仮に、「綺麗に終わろう」という清算の意味でこの場を設けたのだとすると、いったい始まりはいつだったのだろう。このひとに特別な感情を抱く機会すら、ろくに。

 

「あしたまでなんだっけ?」

 

ええ、はい。ひとつの節目が。タイプAから種類を分けるとするならば、タイプKあたりだろうか。あるひとつの種類のわたし、つまりはこのひとの前でのわたしが終わる。

 

「まあ、あっというまだったね。おつかれさま」

 

わたしは人生のうちで、何度あの大学一年生のわたしを再現するのだろう。あの、言い知れないような無敵感が欲しくて選んでいるのだとしたら、なにかを為すことなど到底できない。

このひとに出会った頃の、なんの荷物もないわたしを無敵だったとするならば。二度目は無邪気、三度目は無防備。そして四度目。

指の形が、好きだなと思う。爪の向きとか、間接の位置だとか。

下唇の厚さも好き。あとは話すときのペースとか。あとは、それから?

 

辞めないでよ、とか。これからも連絡するよ、とか。さみしくなるな、とか。そんな建前すらもない。そんな単純な台詞にさえ、余分な意味合いが生じてしまう危険性を帯びていることを、きっと互いが承知している。

それでもこの機を逸すると、今後このひととふたりで会う場面を永遠に失うだろう。

にこにこ。

へらへら。

しかし当たり障りのない会話を中断する手管が、わたしにはない。

 

もしもあの夜まで時間を戻せるならば、どうするだろうか。それでも今日という日までにこのひとに根を生やす時間はあまりに、足りない。

 

「 もっと、知りたい。」

 

脈絡なく飛び出したわたしの言葉に、このひとはそれでも笑うのだった。

 

「はは。んー俺ねえ、牛すじが好き。おでんのはなし」

「そういうのじゃなくて。そうじゃなくて。あのね、そんな、ぜんぜん警戒しないで聞いてくれていいんだけど、たぶんわたし、もうすこし時間があったらきっと、あなたのこと」

「んー待って待って、やめない?こういうの」

 

真面目な話って苦手。

 

そう言ったあとで、店員を呼び止めたかれはビールのおかわりを頼んだ。底をつきそうなわたしのグラスを指したかれに、わたしは首を横に振る。

 

どうも、どうやら、どうしたって、見透かされてる。

求めているのはつじつま合わせ。起こった事実の正当化。ただしそんなものは、起こらぬ未来には必要ない。

 

また、置いてきぼりにしてしまうのか。選ぶのはわたし。

それでもここで構築されたものが本当に、一片たりともないのであれば、余ったピースをどうすればいい?

 

わたしの前髪に触れた彼の下唇が、柔らかな弧を描いた。目眩がした。

 

15. December/2016